-保健衛生課・環境管理課としてごみの業務に取り組まれたのは、いつからでしょうか?
昭和63年4月1日から平成3年5月12日までの約3年間になります。
当時は八幡丘という地区に埋め立て処分場が設置されていて、生ごみも一緒に処分していたのでカラス、悪臭、そしてハエがすごかったです。
八幡丘が酪農地帯なので生まれた仔牛がカラスにつつかれたり、キツネや野犬がきたりで、もう大変な時代でした。
カラスが2万羽から3万羽ぐらいいて、日が明けるとともに埋め立て処分場に向かって飛び立ち、日が落ちると同時に寝ぐらにしていた朝日ヶ丘公園の森林に帰っていくというのがずっと続いていたんですよ。
こういう状況下で、地域から苦情も出ていて行政側に「なんとか閉鎖の決断をして欲しい」と言われていました。
そこで当時の滝口国一郎市長が昭和63年7月31日をもって八幡丘最終処分場を閉鎖する決断をし、その間に行政側として処分場の用地確保と施設整備や資源リサイクル、環境保全等に取り組むということも決められました。
またこの時、長年ごみ収集や処分にご協力頂いた八幡丘地区の皆さんに市長が大変感謝されていたことを覚えています。
-市長の決断を聞かれたときに、担当される宇佐見さんとしてはどのようなお気持ちでしたでしょうか?
私は常に「知恵と汗と行動」というのを自分のキャッチフレーズとしており、当時は教育行政の社会教育の専門職員として、地域の人たちやいろんな方達と懇談したり、各種行事を行っていたんです。
それに市長が着目され、声をかけて頂き市長の熱意ある話に「富良野市をより良いまちにしていくために一緒に行動したい。これを全市民に広げていきたい」という気持ちになりました。
-市長と宇佐見さんの熱量あってこそのチャレンジだったんですね。ただ「いざやろう」となっても、市民の方への説明や理解には多大な努力が必要だったと思います。当時どのようなことがあったか教えていただけないでしょうか?
まず昭和63年7月1日から6種分別をスタートさせるために、4月から6月の3ヶ月間、市内93箇所で説明会を行いました。ほとんどが夜でしたし、場合によっては単独でも行きました。それ以外は町内会に情報を流し、各連合町内会にもお願いをして皆さんを会館に集めていただいて、そこで映写機をもって分別の内容を説明させて頂いたりしました。
「将来、富良野市を環境に優しい資源リサイクルのまちづくり」の冊子も作りました。
-93箇所も行かれていんたんですね!
いや、もう大変でした。ほとんど夜ですし、場所によっては土曜、日曜関係無しで取り組みました。
担当課の職員と協力し合って分担して説明会を行いました。17時まで勤務だったので、その後18時過ぎからの説明会を実施していましたね。
ただ大変ではありましたけど我々担当課職員44名、そして業者さんとが「将来環境に優しいまちづくりができる」、その意欲と想いが皆を行動させたと私は思っています。
-宇佐見さんや他の行政の方の熱意が徐々に市民にも伝わり、だからこそ分別も共感を得たんですね。実際に分別が始まっても上手くいかないこともあったんでしょうか?
そうですね。スタートして一番苦労したのは、国道38号線芦別市滝里町の道路に、ごみ箱が何箇所かあったのですが、そこに富良野市の固形燃料ごみが捨てられていたり、南富良野町の最終処分場に固形燃料ごみなどが捨てられていたことです。
他の自治体からも「富良野市さんのごみがうちに捨てられているよ」と夜連絡をもらって、雨の日、あるいは雪の日もありました。そのごみを私共が現場に行ってその袋を持ち帰り、うちの工場で分別し処分していました。
他にも山岳地帯に家電製品などを投棄されたり、山沿いのところにあった旅館の入り口にたまねぎを捨てたり、あるいはへそ歓楽街の近くの無頭川沿いにもいろんなものが捨ててありました。
-そういった苦労もありながら、今では生活文化として根付いていったんですね。ちなみに生ごみを堆肥にすることや固形燃料として再活用することは全国的にもかなり珍しい取り組みだったのでしょうか?
昭和63年7月、リサイクルセンター内に固形燃料の施設が開設された際にNHK特番の生放送番組があって、滝口国一郎市長が出演されました。
「市民の皆さんの協力があって今の分別がスタートし、その固形燃料ごみはこの施設で処理されている」とアピールさせていただいたこともあり、随分反響がありました。
他の市町村からも電話をもらった記憶があります
-すごい反響だったんですね。宇佐見さんは現在は第一線からは離れられた形になりますが、今でも何か取り組まれていることはあるのでしょうか?
例えば、うちの町内会では、マンションやアパートに入居される方もおられるので、なかなか分別が伝えきれていないことがあるんです。そのため、町内会の広報誌「お知らせ版」などで「袋に名前を書いて出してください」あるいは「マンション、アパートの場合は部屋の番号を書いてください」と伝え、分別されていなければその不適物の袋を持って行って、そこで改めて分別の説明をさせて頂いたりしています。
他にも「やっぱり分別が分からない」という方もおられるので、市役所の担当課から資料をもらって、分別の説明を一軒一軒させてもらう事もしていました。
-独自の取り組みもされているんですね。いろいろなごみやリサイクルの動きをされて「今後富良野がこうなってくれたらいいな」ということはありますでしょうか?
30年以上、資源リサイクルを推進し、歴代のいろんな人たちが担当してきて、すごく環境に優しいまちづくりが築かれてきていると思います。
いかに排出された、ごみと闘い、ごみを処理し資源化する。そのシステム化をあみ出し、取り組んできた成果が現在の富良野市の環境政策、行政と市民との協働事業「分ければ資源・混ぜればごみ」に結びついていると感じています。
これを崩さないで、できるだけ今のものを残しながらも新たに観光にも結びつくような取り組みをしてほしいと思います。
例えば、今も進めている「生ごみを堆肥化」でも、堆肥でできたアスパラなどを多くの外国人の方に振る舞うとか、あるいは作ったメロンや野菜なども、コーナーを設けて市民の方に提供するなどの取り組みとアピールが大事だと思っています。
これまで取り組んできた、資源リサイクルを推進していることを全世界に向かって広げ、今も継承されている市民本位の環境にやさしいまちづくりの推進を続けて欲しいと思っています。