全量埋立時代
昭和50年代までの富良野市のごみ処理は当時一般的であった山間部の地形を利用する埋立処分のみであり、生ごみを含めたすべてのごみを地中に埋めていた。
しかし、郊外とはいえ埋立処分場の周辺には悪臭や汚水による環境汚染。
また、カラスや野犬などが農作物を食べてしまったり、家畜に悪影響を与えていた。時にはカラスが牛を突き、家畜が怪我を追うことも。
この地域課題を解決すべく、住民と行政の挑戦が始まる。
覚悟のとき
ゴミの埋立処理に伴う被害を解決すべく、昭和57年に市民から埋立処理場の閉鎖要求がなされ、閉鎖時期を昭和63年3月とした。
行政はすぐにゴミ処理専任の係を設置、「分ければ資源、混ぜればごみ」「廃棄物分けて生まれる新たな資源」「燃やさない・埋めない」などのスローガンを掲げ、官民一体で環境問題へ向き合うこととなった。
分別のはじまり
昭和57年の閉鎖要求から、ゴミを資源として再利用を図るために必要なことは「分別」であった。当時はゴミを分別する文化が無かったことから、昭和58年から3種分別の試行がはじまった。
分別という煩わしい行為に慣れない一部の住民の中には別自治体へゴミを持っていき、捨てるという問題も発生、その都度行政職員がゴミを回収しに行くというような状態も続いた。
それでも覚悟を決めた住民と行政職員は何か良い解決方法がないかを常に模索し、行動に移していった。1軒ずつ説明に出向いたり、出前講座のようなこともした。
職員の地道な努力と住民の理解が合致し、昭和60年には3種分別が本格的に実施される。
固形燃料ゴミ
昭和63年にはゴミの6種分別が始まり、新たに「固形燃料ゴミ」という種別が登場した。一般的には「燃えるゴミ」として認識されやすいが、あくまで、燃料として再利用できるゴミの事を差し、当時は石炭代替え燃料として活用。現在ではRDFとして熱供給会社に出荷したり、市内の施設で利用している。
固形燃料ゴミから燃料を作り、そのエネルギーを地域のエネルギーとして循環させている基盤を作ったのは30年以上も前のことであった。
生ゴミの堆肥化
富良野市の基幹産業である農業にもリサイクルにおける恩恵を。埋立処理場廃止から、生ごみを使用して堆肥化出来ないかと、実験を繰り返し圏域の市町村と共同で「富良野地区環境衛生センター」を建設。不要なものと思われていた「生ごみ」「し尿」等を堆肥化することでゴミを資源化することに成功した。現在では農家や一般家庭の菜園等に使用されている。
現在から未来へ
地域課題だった環境問題。世界中でサスティナブルというワードが注目される中、官民協働で挑戦し続けてきた結果、リサイクル率約90%という数字を作った富良野。
現在ではリサイクルマーケットやゴミ収集アプリなど、リユース・リサイクルの動きが最大化するような取り組みが続けられている。
令和3年にはゼロカーボンシティを宣言し、脱炭素へ向け環境問題を自分ごととして捉え、サスティナブルな街の先進地となるように活動を続けている。
持続可能な観光地域
基幹産業の一つが観光である富良野。
100年後も来訪者と住民が安心して暮らし楽しめる場所として、観光客の方々にも富良野の環境に対する文化をご理解頂きながら、相互につくる新たな循環を生み出せる動きを作っていくことも当地域の挑戦のひとつ。
多くの観光客が来てくれる地域だからこそできるサスティナブルな動きを考え、行動していきます。